ブログを始めた理由(見えているけれど見えない世界について)
はじまりは、見えているけれど見えない世界について、どこかに考えていることをかいておきたいと思ったのだった。
見えているけれど見えない世界
見えているけれど見えない世界、というとなんというか、オカルトというか有名な科学者でも晩年は道を誤るというか、まぁあんまり印象はよくない。
何となく、明治の始まりの頃とか、戦争の前の時代は今よりも小説とか文学が大切にされていたようにも見えるから、そういう時代だったらもっとこの手の事項について、学問と実用の中間あたりで議論されていたテーマなのではないかと思う。
しかしながら、この平成がそろそろ終りを告げる2018年の現代おいては、残念ながら寡聞にしてまとまったものを読んだことがない。
そこで、もしかしたら、自分がそのうちまとまったものを書ける可能性があるかもしれないと妄想しながら、これを書き始めて見た。まぁ評判が悪かったり、どなたも楽しませることができなかったら自動的にインターネットの片隅に消えていくのだから、暇つぶしに僕が描いても誰の邪魔にもなるまい。
それで、もとのテーマについて、そう、見えているけれど見えない世界ということだった。
見えていないものがあるとわかったタイミングがある
とあるタイミングで舞を見始めたことがきっかけだった。見た。初めは何も感じなかった。しかし、見つめ続けるうちに、何か重く苦しいものを感じはじめたのだった。
これはなんなのだろうか。そう思いながら帰宅をした。するとどういう訳か昼間見た舞が頭から離れない。次の日も、その次の日もいつまでたっても、自分の中にわだかまりとして残って消えてくれなくなってしまった。
何が何だかよくわからなかったが、その時僕が思い出したのは、曽田正人の『昴』で、プリシラ・ロバーツが踊ったボレロが観客の頭から離れなかったというエピソードだった。
あれ。。。もしかしてそれが今現実におきてるのかな。。。
リアリティのあるドラマ、鮮やかなストーリーとは全く無縁に一見見える舞だったが、僕が感じた正直な印象は、そこに何か大量の情報が詰め込まれていて、確かに僕は感じているはずなのに、それを言葉にするすべがないということだった。
僕はよくわかっていなかったのだ。人間は自分の世界をありのままに感じているつもりでいながら、実は自分がこれまでの人生の中で育てて来た概念とか、ことばとか、モチーフに一旦丸め込んだ上で、自分に対して世界を見せているに過ぎないのだということを。
だから僕はその時、自分が感じているものすら、自分にわからせることができなかったのだ。
複雑なものはどんなものでもこういう傾向がある。複雑なプロジェクトの穴は熟練のプロジェクトマネージャには見え過ぎるくらい見えているが、駆け出しのメンバーには見えないものだ。熟練の技術者にはわかる故障を示す音を、一般人は聞き取ることができない。
そう。確かに存在していて誰の目にも見えているけれど、実際に受け取ることができる人は受け取る準備ができている人に限られる。。。これはそういう類の、熟練に関する話なのだ。決してオカルトでも、エスタブリッシュメントもどきの気取りのはなしでもない。
素晴らしいものに出会ってしまった
あの日から今も、ことばを探し続けている。いや、正直なところ探すべきはことばなのかどうかすらよくわかっていないから、正しくいえば、あの日感じたわだかまりを持て余して出口を探し続けている、といったところだと思う。
このブログでは、その過程をかいていきたいと思う。