物語の決め手

お能などをみていると、いろいろな因果の果てに、お坊さんの力でスーパーな事が起きて万事解決することがよくある。

例えば。。

海士、道成寺など。お経が出てきて、悲しい因果を粉砕するのである。粉砕せずとも、檜垣や隅田川では亡霊が出てくる重要なきっかけになっている。

まだあまりたくさん見ていない私のような者でも感じるのだから、ほかの作品もそういうものが多いのだろう。 当時の人たちはお経のスーパーパワーは最後を決めるものと認識していたのではないだろうか。

もちろん、私含め現代の我々はこれをすんなりと物語の決め手としてを感じることは難しい。 確かになんとなくお経はありがたいものだが、物語を動かしたり、最後をしめるものではないと認識しているからだ。 もっというと、現代の物語は経文と無関係といってもいい。みなさん、見たことないでしょう。いきなりお坊さんが出てきて敵をやっつける漫画とか。私ももちろんない

あれば読みたいのでぜひ教えていただきたい。若干横道に逸れて恐縮だが、例えば「青野くんに触りたいから死にたい」はきっとお能の演目だったら最初お坊さんが出てきて青野くんと出会い、青野くんが語る昔語りが漫画で描かれたパートで、最後はきっと今に戻ってきてお坊さんが般若心経とか法華経で青野くんを成仏させる、という筋書きになるのだろう。

現代の物語における「決め手」

もちろん、青野くんはそうはならないだろう。では、現代の我々にとってお能のお経に相当するのものはなんだろうか? なんとなくだが、「 個人の持つ意志の力 」と「物語で積み上げられてきた因果」が相当するものではないかと思う。 これが物語の最後で、大事な局面で主人公に起死回生の力を授けることがおおいからだ。

「意思の力」というのは「うぉー」と叫んで敵を粉砕するアレである。

「物語で積み上げられてきた因果」というのは、会話バトルのあとに、絶対に負けるはずがない音楽が流れ始めて、全ての敵の攻撃を跳ね返すあれである。

そして、主人公がとうとう繰り出した必殺技がその両方を組み合わせたものである。

それで。。。

私はこの意思と積み上げてきた因果で物語を決める型が本当に好きである。最近はハイスコアガールの終わり方がこういう感じでよかった。Undertaleなどはまさに全般的にそうだが、アズリエル戦はまさにこういう感じでとてもよかった。

一方で、冷静に眺めてみれば、世の中の物語は因果と関係なく進んでゆくものだし、個人の意思の力も効果は限定的である。すごく好きだが、現代の物語の決め手もきっと、昔の人や未来の人から見ると、一見退屈に見える可能性もあるのではないかと思う。

翻ってお能である。ざんねんながらまだまだ法華経が出てきても「うぉー来たぜぇここで法華経か! これは熱すぎる」とはまだなっていないのだが、お能がこれだけ続いてるのだし、物語なんだからこういう風にも楽しめるものではないかと期待している。最近、伝統芸能を心の底から楽しんでいるご老人方と出会って語らうたびに、僕は舞やお能などをできる限り実感をもって楽しんでみたいと思っているからだ。

例えば見るほどに物語の構造に親しむほどに、こころに迫ってくるものが増えてくるのが面白い。 お経ではないが班女などは最後の展開はとても恋愛ものとして熱く、よいものであった。

そういうことを期待してお経を読書し、お経を唱えて見ている日々である。

Written on February 6, 2019