何を罪とするか

なにを罪とするか、これはわかっているようで分かっていないことである。

自分で行ったことに対する罪

自分の意志で行ったことについては、意図や計画の有無が他人からみた罪の有り無しに大きく関わってくる。 これは多少の異論はあれど皆さん合意に至ることができるたぐいのものだと思う。

何かに害悪を及ぼす行動をしたら罪があって、意図しない場合は若干または完全に軽減されるというのが合意である。

時代と共に移り変わるのは「外部から降りかかったもの」に対する罪

一方、自分の意志ではなく、外部から降りかかった物事や、外部から得られた評価ついて、降りかかられた人間の罪がどれほどかということについては時代と共に罪の有無が移り変わっていてとても興味深い。

例えば神社で祝詞をあげて貰うときに 天つ罪国つ罪 という言葉が出てくるが、これは文字通り罪について語っている。 そして、このなかの 白人 という罪はハンセン病の事であるという。現代の我々の感覚では病は罪でもなんでもない。 もちろんハンセン病も罪であるわけがない。だからこれを罪とした昔の人の感覚は我々と随分と異なっているようにも思う。

他にも事例がある。檜垣 はお能のなかでも重いものだと言われ最重視されている演目の一つだが、この中で太宰府のそばで買春をしていた「檜垣の女」は、年老いて乞食になって死後も地獄の業火に焼かれているのである。乞食の身分に落ちているのははまぁいろいろ稼ぎなどあるだろうからまだ分かる。罪など関係ないだろう。

しかし、地獄の業火に焼かれる事になった罪状はというと、「われいにしへは舞女の誉世に優れ、その罪深きゆえにより」 なのである。

 「 舞の上手な女 = 罪 」

どうだこの圧倒的な逆恨感。これが堂々と成り立って皆に受け入れられているのがとても面白い。

しかし、昔の人の罪の見方は、本当に我々とは無関係か

祝詞、お能のこのような外部から降りかかった物事への罪の考え方は現代の合意事項とこのように大きく違っていて面白い。。。のだが、じゃあもう一回ひっくり返してみて、本当にこれらの物事を罪と見なす意識が我々から消えたのか? と問うて見よう。

どうだろうか、べき論やポジショントークを外してまっさらに考えてみれば、はっきりと現れていなくとも、その意識と地続きのものごとはまだまだ世の中に溢れているように思う。人により意見がバラバラだからここでは具体的事例は挙げないが、まったく無関係だとは言えないのではないだろうか。

ここは物の見方を論じるブログだから、これの是非については語らない。ただ、改めて思うのは、いずれにしても、物事の見方について、過去と今を比べることは最終的に今の物事の見方のスキとかクセを探り当てることにつながっていて、本当におもしろいものだと思う。

昔のことを昔のこととして扱うのではなく、常に自分が昔の人の目線に立てるように今のこととしてつとめて認識してゆきたいものだと思う。

Written on February 6, 2019