美しい花がある

かつて小林秀雄さんはお能の「当麻」を見た帰りの道すがら、道に残った雪を夜空の下で眺めながら、さきほどまで見て来たお能を思いつつ「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」と感じたという。

僕は寡聞にして小林先生が何歳の時にこれを見たのかは知らない。でも、見えているけれど見えなかった世界が、ひとつまた見える様になったみずみずしい先生の喜びが、前後の文と合わせてすごく描かれていて美しい文章だと感じた。

新しい世界が見える様になる喜びは何歳になっても赤子が世界を見つめる目線と似ていて、とてもうつくしいと思う。 こういう風に、概念とものの関係を語った言葉は結構色々ある。

僕らの見ている世界は一体何なのか

古くからなぜか人間はほったらかしにすると徐々に道に迷うものだと言われている。生命は本来、いきているだけで美しいはずなのになぜかその美しさから徐々に遠ざかり、そしていつしか自分が作った苦しみの中で苦しみ始める。

かといえば、ストックホルム症候群の事例にある様に、絶望的な苦しみの中で、本来は喜びや愛を感じてはならない状況であるのに、外部からなされた理不尽を必然とか、喜びとして受け取ってしまう事例もある。

これはいずれも、僕らが見ている世界は結局僕らが頭の中で作り上げているからなのだと思う。プラスマイナスですらひっくり返るその力の恐ろしさと不思議さはいつまでも興味を惹きつけてやまない。

色即是空 空即是色

般若心経の経文の中では観世音菩薩は「照見五蘊皆空」つまり人間の構成要素というのは全て実体がないことがわかったとまず語る。そしていろいろ言い方を変えながら、世の中の形あるものや概念は実は形がないものであるというのだ。「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」とか「諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減」といって。

そして、苦しみなどもないから安心しなさい、ということが書かれているようにみえる。お坊さんから説法を受けたことはないが、断片的に意味をたどっていくとそう読める。苦しみを受け入れろとも受け入れるなとも言っていない、ただ存在しないといっているのだ。

こういう態度は、知らない間に勝手に苦しむこととも、ストックホルム症候群に陥りそうな思想ではないのでとても好感が持てる。 (逆に自分の実体がしっかりしている様に見えることが不思議なところではあるが。。。)

一方、眼を大切にした青山二郎さんは

「眼の筍生活(青山二郎全文集 下 に所収)」の中で、眼の働きよりも頭の動きを重視するのは、美の世界を狭めることだとも言っている。

「或る人はいひます。『美術品といふものは存在しない。在るものは美だけだ』 かういふ風な考へ方を、あながち一を知って二を知らないとはいへませんが、併しこの『考へ方』の範囲に美の限界が見積もられている事に気が附くと、この考へ方は矢張り二を知って三を知らない頭の働き方だけに過ぎないことが分かります」

自分が考えているよりも、自分の頭で見えているものよりも、現実の方が広く、複雑ということなんだろう。(ちなみに青山二郎さんは「美しいものを見ることを」大切にして生きた有名な方だが、うまく丸め込む言葉がないこと自体も、本質的な氏の生き方を示している様で面白い)

世界は広く、言葉では割り切れない

僕らは昔以上に、言葉が世界を作る言霊の世界にいきている。こんな日記をgithubで世界に配ることができるのも、そのおかげだ。僕は職業柄codeが今の世界を作っていると信じている。

3Dプリンタが普及して身の回りのものもcode化される「material as a code」や、さらにその先に控えている微細粒子をcodeで組織して現実を形作る「atom as a code」、または我々が仮想現実で主に生活を始める「code as an atom」の世の中になっていくはずだから、よりそれは強化されるだろう。そして僕も微力ながらその世界を作るために働いているつもりだ。

それでも、それでもだ、同時に、未だ真実の姿をだれも見たことがない、見えているけれど見えない世界を明らかにする重要性も増えてゆくのだと思う。見たこともない明るい未来を作るために。

Written on January 4, 2019